呪術雑学&魔界案内


管理人が、呪術系用語や場所を書き込んでるページです。
このページを見て行われた行為に関しては、自己責任にてお願いします
あくまで趣味程度で書き込んでおりますので、足らない部分は多々あります。
興味の無い方は見逃がしてね。 ( ̄ー ̄;)


目次  あ行  か行  さ行  た行  な行  は行  ま行  や行  ら行  わ行

「あ行」

芦屋道満
平安中期の陰陽師 播磨(いまの兵庫県)の民間陰陽師集団出身といわれる。
別名「「道摩法師」と呼ばれる実在の人物
歌舞伎の「芦屋道満大内鑑」では、安部晴明と呪術合戦をする
悪役の陰陽師として書かれる事が多い

安部晴明
「土御門家記録」によると、寛弘2年(1005)9月26日に他界したと記録があり 
享年85歳とあるので 生誕は、延喜21年(921)となる 土御門家の祖でもある
朝廷では、従四位下という位を,持ちかなりの発言力を持っていたらしい
時の権力者の影となり暗躍したとも伝わる なぞの多い人物である
幼少のころ師匠賀茂忠行の共をしていて前より鬼が来た事を知らせた逸話があり 
それより師匠から「瓶の水を移すがごとく」術を学んだとされる
陰陽道のバイブル金烏玉兎集は、 大唐の白道上人よりを授けられたと言う説や
安部晴明本人の著書とも言われる

85歳で永眠した安部晴明の墓は、京都嵯峨にあり
住居跡(正しくはその一部)は「晴明神社」として現存している。
また本屋敷跡は、現在ホテルが建っているので調べて観光がてら利用するのも面白い。

一条戻橋
京都一条通りと堀川通りが、交わる場所に、掛かる橋
伝説によると、
@源頼光の部下 渡辺綱 が鬼女に襲われ名刀「髭切丸」で片腕を切り落とした。
A文章(もんじょう)博士の三善清行が息子の「浄蔵」により 蘇ったとされる。
(戻橋の名の由来は、ここから来ている)
B稀代の陰陽師「安部晴明」が妻が怖がるので十二神将(式神)をここへ隠したとされる。
C江戸時代は、この世とあの世を結ぶ場所だとして処刑場へ行く橋として使われた。
D橋占の場所としても有名で、高倉天皇の建礼門院の出産のときに、その母の二位殿が一条戻橋で橋占を行った。
このとき、12人の童子が手を打ち鳴らしながら橋を渡り、生まれた皇子(後の安徳天皇)の将来を予言する歌を歌ったと伝説が残る。
榻(しじ)は何榻、国王榻、八重の塩路の波の寄せ榻
訪ねて見ると、夏の盛りでもヒヤリとした雰囲気があり 橋の下を覗くと引き込まれそうになる
袂には、不気味に柳が生い茂り橋の説明文の看板が隠れるように立っている。
晴明神社を訪れた際に、行ってみるのも一興ではないだろうか。

丑の刻参り(うしのこくまいり)
この呪術を行うものは、白木綿を身に付け頭に縄を巻きろうそくを挿し口にクシをくわえ
胸に鏡をたらし一本歯の下駄をはき
深夜 藁人形に一晩一本づつ五寸釘を打ち込み
七日間続けるのであるというものや
顔に朱をさし、身に丹を塗り、3本の足にロウソクを灯した鉄輪を頭に頂き
足には松をともし火をつけた松明を口に咥え 
静まった夜更けに走り行き 藁人形を神木に打ち付けると書かれた「太平記」もある
しかしその間誰かに、見られたり取り除かれたりすると、効果はなくなる
たとえ成功したとしても、必ず行いし者にも 2倍の災いが降りかかると言われている。

雨月物語
1734年 大阪生まれの作家 上田秋成が書いた怪奇譚
9話の怪奇話の中で現れる人の真実の姿が、心打たれる
かの有名な「白峰」もこの作品の中の話である。

役小角(役の行者)
日本の山岳宗教修験道の開祖幼いころより その能力を発揮し32歳で葛木山にこもり
孔雀王呪教を30年間修行し習得した 
京都賀茂宗家の流れを汲む分家の出 宗家に仕えた職能の印「役」の氏名を持つ。
水上歩行、空中歩行、祈雨、若返り、鬼神(式神)使役などを行った。
守護神として、天狗の夫婦(鬼とも言われる)「前鬼、後鬼」が影のように付き添った。
伝説では、吉野の金峯山と葛木の峰を繋ぐ橋を鬼神に命じ掛けさせた。
その時反乱を起こした一言主と韓国連広足の諫言により伊豆に流されたが
北斗星の化身に聖人を陥れた罪で各地に天変地異が起こっていると告げられ釈放された
その後母親と天に昇ったとか唐に渡ったなどの説がある。
奈良の大峰山系は、小角が、最初に開いた修験場である
その麓にて造られる「陀羅尼助丸」と言う丸薬は、
小角が、製法を伝授したと語り継がれている

陰陽道(おんみょうどう)
元は、奈良時代の学者「吉備真備」が「唐」より持ち帰ったとされる。
中国古来の思想「陰陽五行説」(木、火、土、金、水、の五要素の組み合わせ)と
「占申、呪法、祭祀、方位、天文」の集合思想であったが
日本古来の雑密や道教に影響され秘教と化していった。
元々は僧がかねて行ってきたが
その不可思議な要素が、科学の未発達な世に重宝され
平安国家の中枢に食い込んでいき
その陰陽道を生業にした者が、「陰陽師」と呼ばれる官職として独立するにいたった。
(平安京の大内裏には、陰陽寮という帝直轄)
特に「霊力」 の強い陰陽師は呪術による暗殺、陰謀、などを請け負っていたとも言われる
10世紀になると世襲による陰陽道家が現れ
暦道を授かった役行者の末裔の「賀茂家」と
天文道を授かった安部晴明を祖とする「土御門家」が二大勢力として成り立ち
明治に官職としての陰陽道が廃止されるまで存続した。
現在の「風水学」や「卜占」などに陰陽道の名残がみえる



「か行」

果心居士
天正年間に現れた 稀代の幻術師 他人の意識をコントロールし
自由に幻覚を見せる技法を、身に付けていた。
一部では、「飯縄法」や「ダキニ天法」を修していたらしい。
織田信長 松永弾正、明智光秀らに幻術をかけたと記録に残っているが
豊臣秀吉に、招かれたとき 過去の知られたくない女の幻術を見せ 
秀吉に仕えていた修験行者に、首をはねられたと伝わる

加持祈祷
密教や修験道で、災難を取り除いたり病気の治癒のため行う技法
護摩壇にて、祈祷した札等を
加持とは、仏教用語で加護保持と言う意味で祈祷により仏の加護を得て災難を除く事 
平安時代に盛んに行われた。

方忌み、方違え
陰陽道でいう凶方を克服する技法である
卜占などで、大将軍、太白神、天一神、金神が通る方位は犯してはならないとされている。
もし犯してしまうと、七人まで死人が出ると言われた。
その方向へ向かわなくていけない時 一旦他所へ向かい
目的地が、凶方にならないようにするのが、
「方違え」
と言う。

観音経
元々は、法華経の中にある観世音菩薩普門品と言う部分が独立して唱えられたのが発祥である。
観世音菩薩は、33もの姿に変化し、迷えるものを救済する
有名な話では、時宗(浄土真宗)の宗祖親鸞が色情に悩まされていた時期に
観世音菩薩が迷わさんと女性の姿で現れ救済した話が残っている。

吉備真備(きびのまきび)
奈良時代の学者で政治家 留学生として唐に渡り 陰陽道関係の多くの書物を日本へ持ち帰り
陰陽師としての才能を発揮し後世多くの伝説を残した。
特に留学生の時の伝説が有名で才能をねたんだ唐の学者達が幽閉したが
かつての留学生(一説には阿倍仲麻呂)の霊を使い真備を亡き者にしようとしたが
逆に味方につけ難かしい企てを乗り越えついに日月を封じた事で
驚いた唐の学者達は渋々帰国を許可したと言う。
一時藤原仲麻呂により左遷させられたが、仲麻呂の乱を鎮圧した事により
右大臣まで出世した。 

気功法
気の鍛錬という意味で 方法には「呼吸法」と「意念法」とが、ある 
呼吸法とは、複式呼吸により体内の気をめぐらし貯めて流通させる事である(小周天法)
やりかたとしては、まずあぐらをかき深呼吸する 吸い込んだ空気を、ゆっくりと手足の端々めぐらせて
最後に下腹部に、溜め込み一気にそしてゆっくりと最後まで吐き出す事,
これを、なんども繰り返すことで、体内の気を清浄化する
意念法とは、天より気を受け取り丹田に貯め身体の邪気を吐き出す法である

祈祷師(きとうし)
祈祷とは神仏と対話する方式で、口頭または、心中にて祈る事を、言う
それを専門に行うのが、祈祷師でありその言葉には、呪力が、こもっており 呪文との関連が深い。
加持と違い厳しい修行を行わなくとも行うことが出来る。

鬼門
よく家を、建てるときなどに聞く「鬼門」は
古代陰陽道からの影響を受けている。
方位で言うと丁度「東北」が当たり
鬼や死霊などが出入りすると忌み嫌われた。 
平安京の鬼門を、比叡山に守らせたのは、有名な話である。
かの有名な陰陽師安倍晴明が屋敷を構えたのも御所の鬼門であった。

鬼一法眼(きいちほうげん)
「義経記(ぎけいき)」に出てくる陰陽師の頭 京都一条堀川に住まいしたとされ 兵法にも通じていた武術の達人
中国の兵法書「六韜(りくとう)」を秘蔵していたと言われる。
この頃の陰陽師は、呪力はもちろん兵法も身につけており 
武装集団として認識されていたと思われイメージ的に僧兵をイメージすれば近いのかもしれない。
「源義経」に、武術の稽古をつけたのは実は「法眼」であったという説もある
お伽草子の「皆鶴」によると方眼が持つ兵法書を「源義経」が方眼の娘の手引きで
手に入れ、全巻を身につけた後、「呪術的要素が多く含んだ兵法が載っていた「虎の巻」だけを書き写し
他の書(文、武、竜、豹、犬)をみな焼き捨てたとある。
<余談ではあるが、アンチョコや虎の巻などと簡易なテキスト類のことを表現する事があるが、このこと言われるようになったという
今も京都鞍馬山にある「鞍馬寺」には、書き写した虎の巻が現存しており 法眼と義経を祀った社もある。

奇門遁甲
陰陽二気の動きに応じて身を隠したり災難を避けたりするための方位魔術
「天の九星」「地の八卦」に助けを借る事で、八門遁甲言われる門(各方位への出入り口)を開く
ー景門ー開門ー死門ー生門ー杜門ー驚門ー休門ー傷門ーのうち、 どの方角が良いかなどの吉凶を占う
奇門遁甲は「三国志演義」の諸葛孔明が、編み出した兵法「八陣の図」に従い

賊を死門に誘い込む罠

狐火
別名「狐の提灯」ともいいます。
冬の夜、山野に見える怪しい灯火のことだそうです。
時には数百個単位で点滅しながら一里ほど続くものもあるらしい
謂れによると狐の息が光っているとか、尾で火を起こしているとかの諸説があります。
江戸の「王子稲荷」は近隣一帯の狐の元締めで、毎年大晦日の夜に、
関東八州の狐たちがお互いの位を決めるために王子稲荷で集会を開きます。
このとき集まった狐たちの火が「狐の提灯」となったとも伝えられています。
(マイミクREX氏ご提供情報)

空海
774年〜835年讃岐(今の香川県)に生まれる。
平安初期の僧 真言宗の開祖 虚空蔵聞持法会得し
遣唐使として「密教のすべて」を習得したと言う。
804年中国に渡り816年高野山 金剛峰寺を開き 
823年 京都の東寺を与えられ真言宗(東密)を広める
金剛峰寺では、まだ延命だとされ朝と昼に食事が運ばれる。 
日本三筆の一人でもある。各地に不思議な伝説を残していて
巡礼中に不思議な僧に出会うなどの話も聞く。

九字
両手で、剣印を結びながら一気に唱える事で、一切の災厄と魔物から身を守る
ただあまりの効果に、釈尊が、弟子たちに行うのを禁じたくらいなのである。
印を組み 呪文を唱える方法と、手刀で縦横に切る破邪の法とが、ある
唱える九字真言は 「臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前」となる。
逆に九字を除垢する呪文は、
「オン、キリキャラ ハラハラ フタラン パソツ ソワカ」
である。

孔雀明王経
毒蛇を食らう孔雀を神格化した「孔雀明王」に関する経典
大願成就には、最大の効果を発揮する
過去役小角が、苦行の末習得したことで有名である。
特に延命持仙法は、息災、祈雨、長生を目的とする
真言は、「マユキラティ ソワカ」

外法、愛法
元々外法とは仏法でない法の事を言うが、作法は大体が密教や修験道を周到している。
実質は祈願する内容によるのである。つまりは普通でない肯定しがたい祈願に用いる事を意味する。
外法と呼ばれる代表的なものに「天狗法がある。
仏法と違い大義名分が無くとも相手に対し修する事が出来る。
善悪より利得で修するため祀るのは仏ではなく動物麗や天狗、死神である。
愛法も同じく恋の成就を無理やり叶えさせる法で古来ダキニ天方や聖天法を用いる。

虚空蔵求聞持法
記憶力を極限にまで増進させ 天才的な才能を開花させる経文
本尊として修するは虚空蔵菩薩である。
虚空蔵菩薩の真言を、人里はなれた修行場で一万回以上唱えることにより修する
現在では、手法や条件がそろわない状態なので習得は難しい。
過去修したとされる人物は,役の行者、空海上人、日蓮上人との記録が残っている。

言霊
昔より言葉には「霊(たましい)」が、あるとされ
それが呪文となって影響される場合がある これが「言霊」である
現在でも不吉な事を言うと叱られてしまいますが それは言葉に宿る言霊が現実に不幸を招くからで
いわゆる呪文や呪符はその力を利用しているのです。
古来より言葉には呪(しゅ)がかかっており 
自分たちの発する言葉ひとつひとつが呪文であることを認識するべきである。

今昔物語
平安後期(十二世紀始め)に成立した「今は昔の・・・」で始まる説話集
文学集天竺編(インド)震旦編(中国)、本朝編(日本)分かれ
それぞれ「仏法部」と「世俗部」に二分されている、あわせて約1200余りの説話が、ある 

護法童子
仏法者が、使役する使い魔 普通は、童子の姿をしている
片手に運命を運ぶ「時の車輪」もう片手には、魔物を縛る索「金剛索」を持つ
術者が、孔雀明王経を数十万回から数百万回唱えると
宇宙より飛来する。飛行能力が、あり 俊足で怪力
陰陽道の式神と同じく使役神である。

護摩
密教等で、火中に供物をささげ本尊に健康、富、安全を祈願する。
もともと仏の知恵の炎で煩悩を焼き尽くすという意味がある。
祈願する内容により 座り方、方向、護摩木、護摩壇、など
技法が、変わってくる

蠱術、蠱毒
中国古来の呪術に由来した陰陽道系の呪術
蠱毒とは毒蛇、ムカデ、蜘蛛、蝦蟇など多くの毒虫や昆虫などを一つの壷や皿に入れ、
一切餌をやらずに放置しておくとやがて共食いを始め最後に一匹だけが残る。
それを字のごとく蠱(こ)呼ぶのだが、その蠱を用いて呪にかける相手を噛ませたり
黒焼きにして食事に混ぜたり、降りかけたり相手の家の床下に蠱を埋めたりすることで、
相手が原因不明の病に犯され急死させるという術である。
施術者はこの法を行うたびに富を得るとされるが、必ず血脈などに影響が出る。
四国に伝わるある術式も蠱術の一種である。
対処法としては、明の学者時珍の著書「本草綱目」によると相反する蠱を服用する事で
回復するとされる。
蛇蠱にはムカデ蠱、ムカデ蠱には蝦蟇蠱など陰陽五行の相剋の理論が成り立つ。



「さ行」

最澄
767年〜822年近江(今の滋賀県)に生まれる。
幼い時より陰陽道や医学などに精通し19歳で東大寺の正式な僧となるが
当時の仏教会に絶望し故郷の比叡山にて山岳修行に入る。
やがて22歳の時比叡山寺を開く丁度京の都平安京遷都の時と重なり鬼門封じの要となる。
804年天台仏教をより深めるべく遣唐使として渡唐する。
そして天台仏教の最高経典法華経とした。
やがて比叡山寺は、「比叡山延暦寺」として各宗派の宗祖、高僧を生み出す教育機関として
輩出し 密教としては、空海の密教と別の密教(台密)として成立させた。

山王一実神道
比叡山延暦寺に伝わる「山王神道」に天海が新たなる呪法(一説には大元師法)を加え
編み出したと言う しかしその秘法は、天海が創造したもので詳しい事はわからない
東照宮でも、深秘であるゆえ他人の知る事柄ではないとする。
ただ「一実神道秘訣」と言う書物によると、 
東照宮を造設し家康の棺を納めた時 天海が「如来秘密神通之力)を修すると
「甘雨 樹を潤し、地が瑞兆を見せ動き、光明が大現して十方を照らした処
二代目将軍秀忠を初め多くの参拝者は、皆随喜・感嘆した」
と言う。
さらに、 「一実神道を信じ生前・没後に関わらず神格を得たものは、常に仏と供にあり
意のままに、現世に利益を施す力を持つことが出来る」
と書かれている。
つまり家康は、自分が没した後も「一実神道」を信じることにより
子孫が統治していくであろう国家の安泰と繁栄を願い 守護神となってその力を意のままに
振るおうとしたのである。
それほど強力な秘術だからこそ天海は自ら封印してしまったのではないだろうか。

式神 式王子
陰陽師が、使役する鬼神 有名なところでは安倍晴明が、使役した「十二神将」である。
仏教系(主に密教)の「護法童子」や飯縄法の「管狐」と同じ種と見られる。
神や木片で作った人形(ひとがた)または、老いた生物などに生命を吹き込む術で作り出す
主に一般的な使役や呪術の際に相手側に送り込み、呪殺する道具にしていたとされる。
晴明は、妻が怖がるという事で「一条戻橋」に封じていた。 現在でも地元の花嫁は、渡らないという

白魔術と黒魔術 (しろまじゅつとくろまじゅつ)
病気の治癒や産物の豊作などを願うなど善の目的に呪術を使う事を、白魔術といい
生物や社会に害をもたらしたり 自分の欲望のために悪魔に力を借り呪術を使うことを黒魔術と、言う
呪法として有名な丑の刻参りは、黒魔術の部類に入る。
一方で古来日本でも 「魘魅」(えんみ) と言う人形(ひとがた)呪いの言葉、符号等を施し
呪殺する方法が多く見られた。
平城京跡からもその遺物が発掘されている。
「北野天神縁起」には、平安時代に藤原時平が陰陽師に呪術を施した人形を宮城の四方へ埋めさせて
菅原道真に呪術をかけた事が記されている。

呪禁道(じゅごんどう)呪禁師(じゅごんし)
呪文や祈祷を、行い悪霊や危害を振り払う術 主に道教から発生している 
奈良時代は、典薬寮の官職である 呪禁師や呪禁博士が存在し医療技術を駆使した。
中国の各呪術医学書を集大成した「医心方」を見ると
その中には医療としての「呪術」が存在し 薬全般はもちろん霊布も扱っていた。
信仰面において 道教系が「道呪」、仏教系を「仏呪」と分裂し
やがて役職としての「呪禁道」は、吉備真備により「陰陽道」へと組み込まれていく事になる

晴明神社(京都)
平安時代の陰陽博士の安部晴明を祭る神社 トレードマークが、「五芒星」なのも神秘的である
拝殿には、安部晴明関連の有名人の絵馬を見ることができる
住所は、京都市上京区堀川通一条上ル清明町 京都市バス堀川今出川停留所歩いて約2分
他にも、全国に安部晴明を祀った神社、仏閣があるので訪ねると面白い。

修験道
かの役小角が、祖と言われる山岳宗教 「修行特験」が全てを表している。
山岳の峰々入り自然に宿る神霊を崇め祀る事で霊力を得ようとした。
自然の物しか口にしない「木喰行」や窟篭り、断食、水行などの多岐にわたる苦行を行った。
それも「擬死再生」という重要な思想があるからである。
現在は「十界修行」と言う体系化された内容を集団で行なうようになっている。



「た行」

太公望(たいこうぼう)
紀元前11世紀ごろに活躍した周の軍師、後に斉の始祖。
呂 尚(りょ しょう)が正式な呼び名である。
周国の文王が釣りをしている太公望に「我が祖父8大公)が待ち望んだ方であると言った事からそう呼ばれるようになった。
その後周の軍師となり文王の孫の武王に仕えた。六韜の著者ではないかとも呼ばれるほど優秀な軍師だった。

陀羅尼
陀羅尼とは顕経経典で言うと、善業を集める事で悪意を起こる事を退ける力の事である。
密教では真言と同義としている。これは陀羅尼と真言は同じ効能があるとされるからである。
一般的に陀羅尼は真言より長文となる。
真言宗では、尊勝陀羅尼、阿弥陀如来根本陀羅尼、宝篋印陀羅尼を重んじる。
天台宗では、阿弥陀如来根本陀羅尼の代わりに、千手観音大悲心陀羅尼を用いる。 
初期の密教行者は、もっぱら陀羅尼を使用していたと思われる。 有名なところで役行者の孔雀明王陀羅尼、弓削道鏡の如意輪陀羅尼、泰澄の十一面観音陀羅尼がある。
法華経においては「陀羅尼品第二十六」と「普賢菩薩勧発品第二十八」に説かれている。
薬王菩薩、勇施菩薩、毘沙門天、持国天、鬼子母神がそれぞれ法華経と修行者(正しき精魂を持つ者のみ)を守護すると誓っている。
普賢菩薩もまた正しき修行を行う修行者を守護すべき陀羅尼を説いている。

追儺の鬼
現代の節分の「豆まき」として今も残る儀式で 元々人が鬼役となり追い払われることでその年の厄払いを行っていたらしい。
しかし途中で鬼役の人そのものを追い払うようにになり ますます生きた「鬼」を生み出す結果を招いてしまった。
かの有名な酒天童子や茨城童子も追い払われた人々の末裔だとする説もある。

天海僧正(慈眼大師)
江戸時代の草創期 家康・秀忠・家光といった3大将軍に仕えた密教僧
伝説では、1536年会津に生まれ11歳にて仏門に入り諸国を廻り比叡山や園城寺(三井寺)などで
学び 武田信玄に軍師として仕え 1608年家康から重用される事となる。
天海は、仏法にて徳川家を守護し家康の権力を確実なものとする為
豊臣家の名だたる大名達を呪殺したとも言われ強力な呪力の持ち主だった事も想像できる。
その呪力を用い江戸の町を密教の奥義で完全なる防御を施した。
家康没後、「山王一実神道」にて 東照大権現として栃木の日光山に祀った。
天海自身も、90歳とも135歳言われるほど長寿で 没後同じく日光で徳川家を守護している。
一説では、「明智光秀」 と言われたが実は、「山王一実神道」の秘儀を護るため謎多き人物として
伝わる事が多い。

ドーマン・セーマン
セーマンとは、五芒星(☆)の形をした魔除けの印 陰陽五行の循環を表し
陰陽道の相剋(そうかつ)を示している(木→火→土→金→水)
星辰信仰の影響もあり 理想の形状を創り出している事で魔除けとして使用されるようになった。
元々安倍晴明の家紋として使われいたため「晴明桔梗紋」とも呼ばれ悪意ある邪眼をそらすために使われる。

ドーマンとは、芦屋道満の名を表し 中国の「抱朴子」にある呪縛の呪文
「「臨、兵、闘、者、皆、陣、裂、在、前」から発生していて
「青龍・白虎・朱雀・玄武・匂陳・帝后・文王・三台・玉女」を示した 
九星九宮のことで、修験道、陰陽道、兵法 密教などで最強とされている。
ドーマンは、今でも兵庫県では、家紋として使われている
別バージョンとして六芒星や篭目、×印もなども魔よけとして使われた。



「な行」

日蓮
1222〜1282安房の国(今の千葉県)に生まれる。
幼少の頃より知的好奇心が、あり
12歳の頃より清澄寺に入山 本尊である虚空蔵菩薩 に願を立てる。修行として天台密教と念仏であった。
17歳の頃目の前より表れたる虚空蔵菩薩に知恵の宝珠を受けたとされる
(虚空蔵求聞持法を行ったものと思われる。)
その後下山し各諸大寺や比叡山で研鑚し ついに「妙法蓮華経」と出会う。
そして32歳立教開宗を行い かの有名なつじ説法を始める。
その時に「立正大国論」を書する
その度色々な法難を乗り切り(滝口の法難、佐渡島への流罪・・・)
法華経の人類の救済を現世で行う事を誓い
時の幕府に3度の諫言を行うが聞き入られず
甲斐の山中に草庵を結ぶ事となる(後の身延山久遠寺)
後9年 厳しい自然と共に過ごすが、門下の願いで常陸へ向かう途中
武蔵の国池上の門弟屋敷にて自筆の法華曼荼羅の頭に入滅したと言われる。



「は行」

般若
本来は、仏教用語で真理を見抜くと言う意味だが、
二本の角を持ち凶悪な顔を持つ鬼女の能面を指すこと多い、
いわゆる恋路関係の怨念(特に女性)により鬼神化した姿だと言われている
鬼と人間との中間である「生成(なまなり)」も同類である
これは、面打ち師の「般若坊」が創作したところから、この名がついた

ひな祭り
3月3日といえば豪華な人形を飾るイメージが、あるがこれは「江戸時代」からで、
それまでは「流し雛」が、 主流であった
これは中国の河川の屈折した場所に酒をそなえ凶事をはらうしきたりより発生している。
それが、5世紀に日本に上陸し酒宴をもようす宮中行事となるこれが「曲水の宴」である。
それに古来人形に、災いを移し変え流すという形となったちなみに「桃の節句」と呼ばれる由縁は、
桃の葉は長寿の薬として珍重されそれを酒にいれ呑んだところからである
よもぎも薬草として餅にいれ食べたことも草餅を食べることに、通ずる。

ヒーリングパワー
約2200年前ある書物の中の「導引法」と名づけられた医療法が、あった
この書物には、人の掌から非常に強い「気(ヒーリングパワー)」が、発生していて
痛みを感じたとき無意識に当てるのは掌から「治癒力」がでている事を知っているからだといわれている。
日本語の「手当て」はこの力を表わしているとされる。
(注)Mrマリックの「ハンドパワー」とは、ちょっと違うので 気をつけよう。

不動金縛法
不動明王の持つ索にて成仏できない悪霊、生霊、死霊、動物霊などの、
障碍霊や怨敵を呪縛し調伏し除災招福を計る。 
修験道では一般的に用いられるいわゆる邪霊に憑依されたものに対して行う。
修験道の開祖「役行者」が一言主を呪縛する際、使用したとされる。
不動金縛りは「たとえ千金を運ぶといえども他に伝与すべからず。秘すべし」言われるのは原則的に唯授一人とされるためである。

風水
中国の歴史の中で生まれた地相占術

日本では、家相や墓相や方位におく色などでおなじみ
風や水などの生命エネルギーの流れを羅盤(らばん)で調べ地相の吉兆を占う
建築物などで流れを塞がない様にする。つまり自然力を利用した建築土木の技法ともいえる。
このような技術を持つ風水師という。

巫覡
本来は日本の原始宗教での霊媒者の意味 
巫は、女巫子を指し 覡は、男巫子を指す
天意を伺う人と言う意味でもある。
ブッタ、キリスト、マホメットらも巫覡として
天啓や霊示を受け 教えを広めたと言っても過言ではない。

符呪
陰陽道の呪文を書き付けた霊符呪術のこと 
お札、お守りの原型 仏教でも凡字等を書き込んで
お札やお守りを作るが 起源は、「大隋求陀羅尼経」に隋求菩薩の真言を書写して持っていれば

ご利益があるとされているところから来ている。

易占(ぼくせん)
古代中国で発生した占いの法 算木(さんぎ)と筮竹(ぜいちく)を用いて
未来の事柄や吉兆を占う
易学では、万物の動向は、数学的に割り出せるとしている。



「ま行」

水垢離・水行
神仏に祈願するため水を浴び心身の穢れを払い清める技法 寒中に行う水垢離を「寒垢離」という
いわゆる 滝にあたることも、これに相当する。
特に冬季の11月から2月までの冷水にて行うのが良いとされるが、あくまで日蓮宗系の大荒行での修行内容なので
普通に行う時にはあまり気にしなくて良いと思う。 ただ冬季期間行うならば健康状態に気をつけて行っていただきたい。
基本的には、21日以上行うのが良いとされる。

密教、密教僧
広義に捉えるならば、どの宗教にも存在する「秘密の教え」と言う意味がある。
だが現在「密教」として認識するのは仏教の中の密教であり
種類として役小角が、修したといわれる「雑部密教」と最澄や空海が伝えた「純粋密教」とがある。
元は、釈迦の時代から仏教の確立おいて各教義の秘教が取り込まれ 
その呪術は、釈迦が弟子に、護身以外の試用を禁じたほどである。(主に九字)
しかし仏教が発展していく上で、呪術以外に、医術、薬学、天文学までが取り入れられた。

「雑部密教」とは、雑念とした整理されていない密教という意味であり
真言、陀羅尼を唱え 病気の治癒、延命、出産などの現世利益を祈願するという呪術的要素が強かった。
一方「純粋密教」は、呪法経典である雑密経典を思想的に飛躍し体系的に整備されたものを言う
根本経典は「大毘廬遮那成仏仏神変加持経」(大日経)と
金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王教」(金剛頂教)、
大楽金剛不空真実三摩耶経、般若波羅蜜多理趣品」 (理趣経)が、ある。

源博雅(みなもとのひろまさ)
延喜18年(918)〜天元3年(980)に実在した人物
醍醐天皇の第一皇子だった克明親王と菅原道真と対立した左大臣藤原時平の娘との間に生まれた
克明皇子が、「賜姓皇族」 (皇位継承権の優先順により反乱が起きないように母親の格が低い皇子や皇女に、
「源」の姓を与えることで臣下になった皇族の事)
だったので15歳で従四位を与えられ 重職を歴任した。
和琴を藤原敦忠に習い 横笛を源雅信 琵琶を源修とさまざまな雅楽を極めた
有名な話に琵琶の名手の「蝉丸法師」しか奏でることのできない名曲「流泉」「啄木」を聴かんがため
3年もの間逢坂の関所近くまで通いついに受け継いだという。
夢枕獏氏の小説では、稀代の陰陽師安倍晴明の親友として登場するがなんとも憎めない人物でもある。



「や行」

厄払い
神仏に祈願して身にふりかかる災いを払い落とす事大晦日や節分などの行事は、
その年の厄を払い清める意味があり
一般的に厄年とは、男 25歳 42歳 女19歳 33歳とされ厄払いを行うしきたりがある。
実は、体が一番疲れやすい時期だからという説もある。



「ら行」

六韜(りくとう)
中国の武芸、兵法書の代表とされる武経七書(ぶけいしちしょ)と呼ばれる、
中国における兵法の代表的古典とされる七つの兵法書の内のひとつ。
「文韜」「武韜」「龍韜」「虎韜」「豹韜」「犬韜」の6巻60編から成り、全編が太公望呂尚
周の文王・武王に兵学を指南する設定で構成されている。

連壇法
壇とは密教の修法の際、用いられる祭壇。 大壇、護摩壇、聖天壇、十二壇、神供壇などを重ねて行う法。
御修法(みしほ)や大法、準大法などはほとんどが連壇法となる。
その中でも五大明王法は本尊壇が5つあると言う事で特別なものとなる。
五大明王法以外では、大壇は本尊供養、護摩壇は祈祷の種類により炊き分けられる
、聖天壇は元々は障碍神の毘那夜伽を祈る事で修法の邪魔をされないようにする法であったが、
毘那夜伽がおおきくな力を持つ天部とされ積極的に修されることとなった。
天台宗では、聖天壇のみ構え本尊をおかずに修する法もある。



「わ行」


気まぐれで、更新いたします 期待しないでね♪




お戻り
inserted by FC2 system